私の備忘録

考えたことを、備忘録的に。

ぼくの単位観

 

先日レスリングの試合を観戦した。レスリングは体重別に階級が分かれていて、試合前には選手は計量をパスしなくてはならない。
少しでも制限値をオーバーしていれば試合に出られないということで、選手は過酷な減量をすることとなる。

計量の様子を見て、「体重計に表示される数値は、本当に正確なの?」と疑問に思う。
真に1キログラムのものを、目の前の体重計は本当に正しく1キログラムと表示しているだろうか?
逆に、体重計で1キログラムと表示されたものの真の重さは1キログラムなのだろうか?

測定には基本的に誤差が伴う。しかし、この誤差の程度によっては、選手の出場の可否に影響する。誤差は大きく二種類思い浮かぶ。


一つ目は、測定機会間の誤差だ。「測定するたびに体重計が違う値を示す」なんていうのが、これにあたる。

二つ目は、測定器間の誤差だ。計器によっても微妙な差はあるだろう。自分の家の体重計が60キログラムを示していても、計量会場の体重計が60.1キログラムを表示することもあり得る。

「重さ」の単位はとても扱いづらく、疑われやすい単位のような気がする。

信用されるさめには、事前にきちんと体重計を調整しておく必要がある。
しかし、この調整も、容易なことではないと思う。


例えば、真に1キログラムの物体(鉄の塊など)が得られたと仮定する。この物体を体重計に乗せたら、その体重計は「1キログラム」と表示していなくてはならない。

ではこの体重計は正確であると考えてよいだろうか?
否であると思う。
この点を座標平面にプロットしたところで、それはあくまでもただ一つの点でしかない。原点(何も乗せていない状態で0キログラムと表示する状態)とこの(1,1)という点を通るグラフなど、無数に存在するのだ。*1
だから、真に2キログラムの物体、真に3キログラムの物体…など、複数の物体を軽量し、それが正しい数値を示すことを確認することで、はじめてその体重計が「(ほとんど)正確」であると言えるのではないだろうか。

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正確な体重計であれば黒線のような、「y=x」の関係であらわされるグラフになるが、2点のプロットだけだと赤線のようなグラフだって考えられる。


このもやもやを解消するために有用な道具が「天秤」だと思う。天秤の重りの重さが正しいことは受け入れるしかないが、てんびんの重りは簡単に変化するものではない。重りと測りたい対象を乗せた両辺が等しく振れるかを確認すればよいというわけだ。*2


一方で、長さは疑われにくい単位だと思う。
長さを測るのに「ものさし」を使うが、ものさしは「真の長さ」を示すはずのものであり、測定機会間の誤差も測定器間の誤差はほとんどないと言ってよく、疑われにくい。*3


ここまで話してきたが、共通するのは、結局のところ、計量する際には「すでにある器具は信用するしかない」ということだ。なぜなら計量器の誤りを訂正するためのすべは基本的には持ち合わせていないからだ。ピアノの調律をするために絶対的な音階を示す音叉を利用する、といったことができないのである。


かねてからものの単位には興味を持っていたが、昨年の「単位展」*4レスリング観戦*5を受けて、自分の「単位観」を文章に起こしてみた次第である。

*1:もっとも「グラフは直線の形状となる」という勝手なルールを暗黙の了解として持ち出せば話は別であるが

*2:ばねばかりはあまり信用できない。ばねの強さは時間とともに変化する。

*3:日常の話であり、ミリメートル程度の長さまでしか必要としない場合の話である。

*4:企画展「単位展 — あれくらい それくらい どれくらい?」

*5: 気になったので聞いてみたところ、定期的に体重計を専門の業者に依頼し検査するそうである。パスしたものだけが計量には使われる。どのような検査をするのかが気になる。

自動車教習所で怒られたこと

決して根にもっているわけではないけど、そんな怒られ方は人生でもほとんどしたことがないので、これから先も忘れないと思う。そんな怒られ方の話。



2年前に運転免許合宿に参加した時のこと。

路上教習で交差点を右折するときに、自分の判断で「いけるぜ!」と思ったタイミングでアクセスを踏んだら、「対向車が来てるだろ!」と教官に怒られ、補助ブレーキを踏まれた。

俺「いけると思いました」
教官「何考えてるんだ、今のは無理だろう!」

自分も「まあ確かに今のはちょっと無理だったか…」と反省した。



そしてその時間の終盤。教習所へ戻るためには右折をして進入しなければならない。自分は数分前に注意されたことを思い出して、対向車とタイミングに注意しながら安全に右折を成功させた。
 
その時の教官のコメント
「さっきの場面では無理やり行こうとしたのに、なんで今のは止まったの?あなたの考えだと今のも無理やり行くんじゃないの?」

この人は人にものを教えるのには向いていないと思った。

そのコメントの続きを想像で補うと、
「でも、今止まったってことは、さっきのはやっぱり間違ってたことに気づいたね。」
みたいな意図があったんだとは思う。

正しい方へ導くための意図は感じるけど、かける言葉を間違えていると思う。なぜ再び失敗を誘うような、喧嘩腰のような、皮肉めいた言葉を用意するのだろう。

「さっきはダメだったけど、今回はうまくいったね。失敗が活かされてるね」くらいのポジティブな言葉で、ことの良し悪しを学ばせるほうがよっぽどいいと思う。
何か失敗したとしても、そこから学び、次の機会に成功したとしたら、その変化や進歩を褒めた上で本人の学びにつなげればいいのに。


教官のコメントとその背後の意図はこう。

①ある「行為」をしたせいで失敗した
②同じ場面ではお前はその「行為」をするはずだ
③でもお前はその「行為」をしなかった。そのおかげで成功できた
④よって、その「行為」は過ちである


②のようなコメントが出てくるのは、教わる側の人間は同じ失敗を繰り返すというのが前提にあるからだと思う。

①③④に関しては、間違ってはないけど、もう少し良い学ばせ方はあると思う。
背理法」のような教え方は数学の授業だけで十分だ。



背理法のざっくりとした例
〜「ルート2は無理数である」ことを証明したい〜
「ルート2は有理数である」という(本当は間違った)ことがらをいったん受け入れて、がちゃがちゃ計算する。すると、計算の過程でどうしても矛盾が生じる。ってことは、最初に受け入れたことがらはやっぱり間違いだったんだ!よって「ルート2は無理数である」Q.E.D.

越権行為?

プロ野球のニュース記事を見ていると、たまに越権行為という言葉を目にする。

例えば、今年の阪神タイガースでは、ある一部の選手が打撃コーチである関川コーチを差し置いて、打撃コーチではないトーふマス・オマリーコーチにアドバイスを求めたとか。
この場合、本来打撃コーチではないのに選手にバッティングを教えるオマリーコーチの行為が越権行為で、選手たちはオマリーコーチに越権行為を求めたってわけ。

自分はこういうニュースに対して、選手が好い成績を出すための苦肉の策だからいいじゃん!本来頼られるべきコーチが頼りないんだから仕方ないじゃん!と他人事にしか思っていなかった。自分が当事者?になるまでは。


テスト前になるとよく生徒から質問を受ける。自分を頼って質問しに来てもらえるととても嬉しい。
自分の質問対応が他のクラスにまで口コミで広がって、授業を担当してない生徒から質問を受けたり、「質問しに行ってもいいですか?」とか「うちのクラスの授業にも出てください」とか言われるととても嬉しい。

こういうのって、自分にとっての手応えにもなるし、モチベーションにもなる。でも、これらの一部はある意味で越権行為なんじゃないかと思うようになってきた。

きっかけは、この逆のことが最近起こったから。
自分の教え方をいいと思ってくれる子もいれば、中には他の先生のほうがいいって子もいる。これは当然の、仕方ないことだと思う。

自分が担当するある学年の授業では、一つのクラスを二人の教師が担当するものがある。あるクラスでは自分が主に授業を行い、もう一人の先生が生徒のサポートをする。またあるクラスでは、その逆もある。
生徒にとっては二人の教師に質問できるチャンスがあるわけだが、自分が主でやっているクラスの子がもう一人の先生を追いかけて質問しているのを見ると、なんか悔しい。

越権行為というと大げさすぎるが、やはり悔しい。自分がすればそれが嬉しい、されれば悔しい、というエゴである。

自クラスも他クラスも俺のところへ来てくれればそれが嬉しい!みたいな欲張りな感情ってだけだけど、そうなるように俺が頑張るしかない。

決して越権行為そのものが悪いわけではないんだな、と結論。自分が頑張るしかない。まだまだ1年目

長岡の花火大会。と、高校の頃に書いた作文

長岡の花火大会に行ってきました。(2年連続2回目)

社会人として学生との格の違いを見せつけなければいけなかったので、新幹線とバスツアー、そしてます席チケットを活用しました。したがって、移動手段や花火の観覧場所にはだいぶ余裕がありました。利点は以下の通り。


利点その1

花火の観覧場所はます席だったので、昨年よりもさらに近い場所で、悠々と寝転がりながら観覧できた。


利点その2

バス移動なので、昨年駅構内に入るだけで2時間以上も並んだところを、花火が終わった直後に涼しいバスに乗れた。


個人的にはみなとみらいの花火大会にも思い入れがありますが、正直、比べ物にならないです。

花火までの近さと、それによる迫力。特に、破裂した音の震えが体に直接伝わってくるのは圧巻でした。


また、とにかく広範囲。あらゆる方向で打ち上がるという花火大会の特長と、花火までの近さがあいまって、視界のほぼ全てが花火に覆われました。視野角や画角がとにかく狭い。草食動物ならば、全てを見ることができるんでしょうね。


キャッチフレーズをつけるならば、

「座っては見られない花火大会」。


座ってると一部しか見ることができないので、寝転がるしかない。そんな花火大会です。


いくつか写真を貼っておきます。


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iPhoneごときではの全てを撮りきることなど到底できません。カメラからはみ出る範囲で空一面に花火が打ち上がっており、Apple社すらも凌駕しているのです。





しかし。


花火の写真を撮っていてふと思ったことがあります。それは、写真を撮っている時は、花火ではなくiPhoneの画面を見ているということです。目の前を花火が打ち上がっているのに、iPhoneを見ているなんて、もったいないなあと。

記憶だけでなく、記録も残したいという気持ちもありますが、100%を身体で感じ切ることを放棄したような、後ろめたいような気がしていました。


ここで思い出すのが、高校の頃の夏休みの宿題で書いた作文です。その当時は自分を含めほとんどの友人が携帯電話を持ち出す時期でした。私は作文で、携帯電話は本来コミュニケーションの幅を広げるためのツールであったのに、逆にそれを持つことで、その操作に夢中になって目の前の友人とのコミュニケーションが疎かになっているのではないか?と格好をつけて訴えました。作文は県のコンクールで佳作か何かを受賞した気がします。


花火を目の前にして、その写真を撮るためにiPhoneに夢中になっている状況。今日、自分が批判的に書いた作文の状況に似た状況が起きていたのではないかと思います。

文明の利器の功罪といったところでしょうか。


また、綺麗な写真をたくさん撮ったとしても、昨年撮った写真と見分けることはままならないと思います。

やはり、その場でどう感じたかが、「来た甲斐」に結びつくのだと思いました。


明日も同じ場所で花火大会が行われるので、新潟県長岡市ではありますが、たくさんの人に行って欲しいと思います。



話は変わりますが、今日群馬県のとある球場で、アレックス・ラミレス選手の引退セレモニーが行われました。このイベントにも誘われており、興味もありましたが、人生は取捨選択の連続なんだなあと思いました。



メガネは俺のトレードマークじゃない。

今まで自分は、どんなコミュニティでもスタートは裸眼だった気がする。つまり、初めましてのときにはメガネをかけずに、これが普段の私ですよろしくとアピールをしていた。

今の職場ではどうか?初日に職員が顔を合わせる場、それから生徒と初めて顔を合わせる場のいずれでも、メガネをかけて初めましてを言ってしまった。

 

失敗した!

 

この時は全く気に留めていなかったけど、このタイミングで周りの職員や生徒には「あーこの人はメガネをかけてる人なんだなー」っていう認識がなされていたんだよね。まるで俺のトレードマークはメガネ、みたいに。

 

ただ、俺はメガネをかけているのは運転に絶対に必要なだけで、日常生活ではかけてなくても意外にちゃんと見えてたりする。もちろんメガネかければよく見える。だってそもそもメガネってそういうものだし。

 

だから、生活しているとメガネを外して廊下を歩いたり教室行ったりする場面がしばしば出てくる。その度に、「え、今日メガネどうしたんですか!?」「何かあったんですか!?」って生徒に声かけられる。コミュニケーションのきっかけになって嬉しい反面、そこまで大きなリアクションしなくても、みたいな思いもあって。

 

教訓3つ!

 

やはり第一印象は重要だなあ

生徒は自分が思っている以上に職員を見ているんだなあ

自分にとっては些細な変化でも意外と反響あったりするんだなあ