長岡の花火大会。と、高校の頃に書いた作文
長岡の花火大会に行ってきました。(2年連続2回目)
社会人として学生との格の違いを見せつけなければいけなかったので、新幹線とバスツアー、そしてます席チケットを活用しました。したがって、移動手段や花火の観覧場所にはだいぶ余裕がありました。利点は以下の通り。
利点その1
花火の観覧場所はます席だったので、昨年よりもさらに近い場所で、悠々と寝転がりながら観覧できた。
利点その2
バス移動なので、昨年駅構内に入るだけで2時間以上も並んだところを、花火が終わった直後に涼しいバスに乗れた。
個人的にはみなとみらいの花火大会にも思い入れがありますが、正直、比べ物にならないです。
花火までの近さと、それによる迫力。特に、破裂した音の震えが体に直接伝わってくるのは圧巻でした。
また、とにかく広範囲。あらゆる方向で打ち上がるという花火大会の特長と、花火までの近さがあいまって、視界のほぼ全てが花火に覆われました。視野角や画角がとにかく狭い。草食動物ならば、全てを見ることができるんでしょうね。
キャッチフレーズをつけるならば、
「座っては見られない花火大会」。
座ってると一部しか見ることができないので、寝転がるしかない。そんな花火大会です。
いくつか写真を貼っておきます。
iPhoneごときではの全てを撮りきることなど到底できません。カメラからはみ出る範囲で空一面に花火が打ち上がっており、Apple社すらも凌駕しているのです。
しかし。
花火の写真を撮っていてふと思ったことがあります。それは、写真を撮っている時は、花火ではなくiPhoneの画面を見ているということです。目の前を花火が打ち上がっているのに、iPhoneを見ているなんて、もったいないなあと。
記憶だけでなく、記録も残したいという気持ちもありますが、100%を身体で感じ切ることを放棄したような、後ろめたいような気がしていました。
ここで思い出すのが、高校の頃の夏休みの宿題で書いた作文です。その当時は自分を含めほとんどの友人が携帯電話を持ち出す時期でした。私は作文で、携帯電話は本来コミュニケーションの幅を広げるためのツールであったのに、逆にそれを持つことで、その操作に夢中になって目の前の友人とのコミュニケーションが疎かになっているのではないか?と格好をつけて訴えました。作文は県のコンクールで佳作か何かを受賞した気がします。
花火を目の前にして、その写真を撮るためにiPhoneに夢中になっている状況。今日、自分が批判的に書いた作文の状況に似た状況が起きていたのではないかと思います。
文明の利器の功罪といったところでしょうか。
また、綺麗な写真をたくさん撮ったとしても、昨年撮った写真と見分けることはままならないと思います。
やはり、その場でどう感じたかが、「来た甲斐」に結びつくのだと思いました。
明日も同じ場所で花火大会が行われるので、新潟県長岡市ではありますが、たくさんの人に行って欲しいと思います。
話は変わりますが、今日群馬県のとある球場で、アレックス・ラミレス選手の引退セレモニーが行われました。このイベントにも誘われており、興味もありましたが、人生は取捨選択の連続なんだなあと思いました。